ゲリラ豪雨の中 [夏の終わり]
ここ数日、毎日 局地的な 集中豪雨が伝えられており、日に日に被害も甚大になってます。
ところが、わたしもこの被害の出ている地域をかすめているのです。
27日には 名古屋に行っておりました、きのう道路が冠水したところを 1日前に通過してます。
そして、きよう 新幹線で東京に帰る予定でしたが、仕事が遅くなったので
奈良にもう一泊して、明日東京に帰ることに変更しました。
そしたら、今日の夜、強雨のため 新幹線が一時 止まるではないですか。
すごく、恵まれているんです。
ここ3日間は、傘をもたずに ずっと生活していますよ。
錦糸町界隈 [街の散歩]
錦糸町駅の北側の西の方に、法恩寺という大きなお寺があります。
また、この近所の蔵前橋通りに 「法恩寺橋」と呼ばれる小さな橋があります、
先のブログでも鬼平犯科帖「本所桜屋敷」に、法恩寺が出てくることは紹介しましたが、その後も度々
小説の舞台となっております。
鬼平犯科帖 第14巻 「尻毛の長右衛門」 には、
翌日の八つ半ごろに。
引き込みのおすみは、橋本屋の勝手口からぬけだし、横川へかかる法恩寺橋へ向かった。
橋の下の川は、現在は公園内の小川になってしまっていますが、江戸時代には 舟が通るほどの川だったので、橋ももっと大きかったものでしょう。
彼方に、法恩寺の大屋根がのぞまれる。
法恩寺は、花洛本国寺の船頭で、江戸三か寺の一つであり、表門を入った両側には塔中が押し並び、境内の稲荷の小宮を中心にした庭園の桜花が、いまや咲き開こうとしている。
いつものように、布目の半太郎は法恩寺橋の欄干にもたれて、おすみを待っていた。
そこが、連絡の場所である。
何かあったときは、おすみが舌打ちを鳴らす。
すると半太郎が、おすみの後ろからついて行き、法恩寺裏の木立の中に入って、連絡を受けるのである。
この様子は、密偵のおまさ、五郎蔵にみられており、
おまさは、しばらく、あたりを見渡してから、本所二つ目の軍鶏鍋屋 五鉄へまわった。
この物語は、このあと舞台は 二の橋に移ります。
名古屋へ [夏の終わり]
「暑い」「暑い」と言ってましたが、最近は「冷たい」空気が入って来ることもあり、過ごし易い日々になりました。そんな 今日、 富士山の初冠雪のニュースがながれました。
今日は、仕事で「名古屋」に行きました。名古屋と言えば、新幹線移動が普通ですが、東京への行き来で
「新幹線」は飽きていたので、奈良から「近鉄」で名古屋へ行ってみようと思いました。
奈良、難波間には、こんな電車もあります。どこを走る電車であるかを決して間違えることもない電車です。この電車で「大和西大寺」まで行きます。
「西大寺」からは、こんな豪華な「特急」に乗り換える。
先頭車両からは こんな景色も楽しめるのですが、乗客の大半がサラリーマンの始発電車では、はしゃいで
先頭に立つのも 憚れたので、じっと我慢して「自分の席」に座っていた。
薬師寺も郡山城も あっと いうまに過ぎて、「大和八木」で近鉄大阪線に乗り換える、乗り換えの待ち時間もなく、すぐに別の特急がやってくる、乗換えを済ませると、「次の停車駅」は「名古屋」だそうで、なんとノンストップで名古屋まで行ってしまう。
途中、長谷寺や室生寺などがあるのに
すべて 飛ばしていく。桜井を過ぎたころから、電車が山奥に入っていくのが判る。
電車が登っていると実感できるほどの傾斜で進んでいく。車窓も 山だけになってくる。
峠のいただきは、雨雲の中だった。
長いトンネルを抜けると、雨はあがり、広い濃尾平野にでて、大きな川をなんども横切る。
松坂、津、亀山、四日市を過ぎ桑名と
聞き覚えの在る街を通り過ぎる。
名古屋から、また あおうみ線に乗り換えて、今日の目的地金城埠頭です。
名古屋は「グランパス」の本拠地。
本所の街角 [街の散歩]
きのうに引き続き、鬼平犯科帖から 街角と川の位置関係をひろってみましょう。
おもしろい位に、現代の地形と一致しますよ。
そして、街が大きく変わったのは、徳川の江戸時代で それ以降の変化はそれほど大きいものではなく、
未だに、江戸時代に作られた 町並みに我々が 生活をしていることを知ります。
きのうと同じ13巻から
「墨つぼの孫八」には、
それは年が明けた一月十六日の夕暮れどきのことで、
「もし、、、、、もし、、、、」
本所の竪川へ架かる二つ目橋を南から北へわたりかけた盗賊改方の女密偵おまさへ、うしろから声をかけたものがある。
「墨斗のお頭じゃあございませんか 」
この部分は、現在の清澄通りを清澄白河から北上して、竪川にかかる二之橋をわたって両国駅前にくる途中の道で、下の写真の奥から向かってきたことになる。
孫八は裏手の細道を曲がり、五鉄の東側へ出た。
そのまま、竪川沿いの道を、まつすぐに東へ行く。
夕方から曇ってきたが、妙に暗い夜であった。
右側が竪川で、左側が本所深川の町家である。家々の戸はしまっているが、二人、三人と人通りもないではない。しかし、三つ目橋をすぎ、四つ目橋へかかると、さすがに人通りも絶えた。
五鉄から亀戸天満宮までは一里もない。
孫八は、四つ目通りを左へまがりついた。
三つ目通りに架かる橋を 三之橋と言い、四つ目通りにかかるのが 四之橋です。
四之橋は、錦糸町出口の橋で 今では もつとも交通量が多くなりましたが、橋はあっても、下に川はありません。
深川の地理 [街の散歩]
東京を遠く離れていても、池上正太郎の小説を読んでいると 随所に 深川などを思い浮かぶシーンがある。
鬼平犯科帖 第13巻 「春雪」には、
小名木川を西へ漕ぎ出た舟の中で、平蔵がこういった。
「伊三次。好きな女がいたら遠慮なしに言え、一軒もたせてやるぞ」
「と、とんでもねえことをおっしゃいます」
平蔵と伊三次を乗せた小舟は、いったん大川へ出て、
小名木川の出口
永代橋の手前を東へ流れ込む堀川へ切れ込み、中ノ橋、千鳥橋をくぐりぬけて
仙台堀です。
そして右へ折れると油川です。
右の堀川へ入った。
「船頭さん、福島橋の下へ着けてくだせえ」
永代通りに福島橋はあります。
と、伊三次が言った。
舟からあがり、舟と船頭をそこへ待たせておき、伊三次は近くの熊井町にある蕎麦屋 翁庵へ案内した。
万年橋から永代橋までの狭い範囲の描写ですが、良くわかります。
ただ残念なのは、仙台掘りの墨田川に交わるところは、埋め立てられて住宅地に成ってしまっている。
両国橋の今昔 [街の散歩]
東京のおもしろさは、周りの建物が変わっても、江戸時代から地形が変わっていないことがあります。
下の写真は 江戸時代に描かれた 両国橋。
絵の構図は、安宅の大はしと 全く同じ、違いは人通りの多さ、下町の中心となっていたことが読み取れます。
橋は鉄橋に変わってますが、隅田川を越える重要 橋であることには 変わりがない。
佃煮の里 [街の散歩]
永代橋から佃1丁目付近を眺めました。
同じ、永代橋から佃島をみた構図は、広重の絵にもあります。
橋の上から見た図と、橋の下から見た図の違いがありましたが、
佃島の昔の姿が感じとれます。
佃島は、徳川家康の江戸幕府と同時に歴史が始まります。家康が江戸に下がってきたのと同時に
大阪の佃村の33人の漁師が移ってきたことに始まります。地名も ふるさとの佃村にちなんで 佃島と名づけました。この人々は 近所の小魚をとって 煮込んでいたものを 「佃煮」と呼んだのが 今の「佃煮」のスタート。
この島を北斎が描くと こうなります。
もはや、33人の漁師の島ではないですね、その後埋め立てが進んで、居住地域になっていったのです。
「鬼平」がその後、石川島に職業訓練所を作ったという有名な話もあります。
職場は西へ [街の散歩]
ここしばらく、職場の東京下町より、江戸のなごりのあるところを紹介してきましたが、
このたび深い事情がありまして、奈良に向かってます。
職場が古の都 奈良になりました。
住み慣れた我が家を離れて、単身赴任です。
江戸を発った今日は、曇りながらも、富士山が頭だけを出して 送ってくれました。
なんども乗り慣れた新幹線ですが、片道かと思うと やはり さみしいものがあります。
京都 東寺。 車窓から このような風景をみると 「歴史の国」に来たな と感じる。
京都より、近鉄に乗り換えて 奈良に向かうと ほどなくして
平城京跡のスケールの大きさが 私を圧倒する。
これが 奈良の入り口です。
今後 奈良の町並みも時折 紹介したいと思います。
それでも、東京下町の写真がまだまだ残ってますので、池波正太郎の小説に合わせて、
しばらくは「江戸を斬る」を続けます。
夕立 [街の散歩]
連日、日本のどこかで豪雨が発生しています。
夏の風物詩として、「夕立」は つきものですが、今年の雷雨は、亜熱帯地方の「スコール」で、
とても 風流に「夕立」とは言ってはいられないようだ。
「夕立」と言えば、安藤広重の絵が有名です。
大はし あたか と書いてあります。
大はしとは、今の新大橋のことで、古くは両国橋を大橋といった頃架けたためこれに対して新大橋といったわけである。 ただし当時の橋の位置は、現在のものより百メートルほど下流、日本橋浜町あやめ河岸から深川六間堀町の辺に架かっていた。
この深川側の一帯が安宅で、幕府の御用船安宅丸を収納する御船蔵をはじめ、他の大小の船蔵があった所である。 この安宅方面を見通した大橋上の夕立の光景を広重は描いた。
この場所にかかる現在の橋は、
新大橋通りと言われ、橋を渡って 道なりに行くと 築地魚市場になります。
江戸町民の職業意識 [街の散歩]
「日雇い派遣社員」などの職場環境の劣悪化が問題になっておりますが、元をただせば、この労働者と雇用者の関係は、数年前の「フリーター」などと持て囃されて、労働者側が企業依属を嫌って、正社員化
を避けたことに始まるのでしょう。
同じようなことが、江戸時代にも起きていたらしい、
「年功序列終身雇用」を日本型雇用形態と言われますが、それが危機を向かえた時代が 過去にあった。
池波正太郎は小説「鬼平犯科帖」の中でこんな事を 紹介しています。
第ハ巻 白と黒
「長い年月を、まじめに奉公してくれたら、しかるべきところへ嫁入りさせよう。そのときは、こちらで十分に支度をととのえてやろう」と言う気持ちだし、下女のほうでも、
「一所懸命に奉公すれば、ご主人は、それだけのことをちゃんとして下さる。」
こう考えて、将来に希望を持ち、陰日なたなく奉公をするというのが常道であって、これをあやしむ者とてなかった。
ところが、ここ三十年ほどの間に、こうした考え方、生き方というものが年毎にうすれてしまい、使うほうも使われるほうも、目先のことばかりおいかけるようになった。
つまり主人のほうもでも、下女を長年あずかり、いろいろに教え込み、嫁入りの面倒を見る根気がなくなってしまった。
金もかかるし、責任ももたねばならぬ。それよりも給金を上げて自由に使い、やめたければやめさせ、気に入らなければ出て行ってもらおうと言う
こうした主人の考え方に、下女のほうも いやなら さっさとやめよう。と言う気構えに変わってくる。
と言う一節があります。
まるで、現代に通じる、労働市場の分析ですが、今日の労働者の労働意識を 江戸時代に当てはめて書くことは十分に考えられることですが、
この小説が 発表されたのが、昭和47年ですから、けっして今みたいに労働者の意識が投げやりにはなっていなかった時代だと思うと、池波先生の先見の目には 感心させられます。